2014年9月号 Vol.04

日本橋文明論 第4講 日本人になった英国人

いまから約400年前、1人の英国人が日本橋に居を構えた。日本を訪れた初めての英国人の名は、ウィリアム・アダムス。後の三浦按針である。日本橋に今でも残る「按針通り」は、この屋敷跡に由来するが、彼の数奇な運命と日本に残した功績は、あまり知られていない。

大航海時代、「ジパング」には「黄金」が眠るといわれ、いくつもの船が、極東の島国を目指して出航した。オランダ船「リーフデ号」もその一つ。船内からは「石見銀山」の地図が見つかっている。

「リーフデ号」には、航海長のアダムスのほか、ヤン・ヨーステンなど110名の乗組員が乗っていたが、22ヶ月に及ぶ大航海の末、豊後国臼杵海岸(現在の大分県臼杵市)に漂着したときには、わずか24名しか残っていなかったといわれている。

時は1600年4月、徳川家康が「関が原の戦い」を制する半年前のことである。珍しいもの好きな家康が、この漂着した西欧人を放っておくはずがない。

家康の寵愛を受けることになったアダムスは、日本橋大伝馬町名主の娘との婚姻を命じられ、この地に屋敷を構える。250石とも言われる領地を三浦の地に与えられ、日本人「三浦按針」として生まれ変わることになった。家康のブレーンとして、日本初の洋式帆船建造や西洋文明の指南を行うなど、後の世に与えた影響は計り知れない。ちなみに「リーフデ号」乗組員仲間であったヤン・ヨーステンは、貿易や外交を任され、その名前は、「八重洲」の語源といわれている。

家康の死後、居場所を失った按針は、長崎平戸で東インド会社の一商館員となり、再びアジア諸国を航海することになるが、1620年に亡くなるまで、再び歴史上に名を残すことはなかった。ただし、この「青い目をした侍」は、ゆかりの地の人々にこよなく愛され、その功績をもっと讃えるべきだという声は止まない。

「按針」とは、磁石によって船の航路を決めること、転じて「水先案内人」を意味する。

2020年の東京五輪に向けて、刻々とグローバル化への変貌をとげる日本橋。世界中からやってくる旅人を、按針はどのような思いで、迎え入れるのだろうか。

三浦按針
屋敷跡 史蹟
中央区日本橋室町-10-8
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日々乃 喜績 hibino kiseki
1971年神奈川県生まれ。某企業で広告宣伝と戦略PRを担当する傍ら、さまざまな文化と場面を創る「仕掛け人」の顔を持つ。今年3月には、企画・協力した小説「病名のない診察室」(著者 豊田美加/ ワニブックス刊)が刊行された。
ニホンバシーモ 2014年9月号 vol.04